9世紀後半のイングランドではヴァイキングが王国の襲撃を繰り返し、全土を征服していました。そんなヴァイキングが格好の標的としていた修道院を守るために戦った女王について、ダークな歴史トピックを扱う教育系YouTubeチャンネルのNightshiftが解説しています。
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ヴァイキングは、角がある兜と斧で武装した凶暴な海賊として、よく映画や漫画、ゲームなどに登場します。しかし、考古学ではこうしたイメージの多くが後世の創作によるものであり、ヴァイキングの実態の一部しか反映していないこともわかっています。よくある誤解のひとつとして、多くのヴァイキングが略奪を行ったことは否定できないものの、全てのヴァイキングが単なる侵略者だったというわけではなく、中には熱心な交易商や果敢な探検家として活躍し、経済的・文化的な拡大に大きな貢献をしたヴァイキングもいたことが明らかになっています。
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それでも、9世紀末のイングランドの海岸沿いでは、何十年もの間ヴァイキングによる略奪が繰り返されて大きな脅威となっていました。特に、沿岸部に建てられた修道院や礼拝堂は、金で装飾された十字架などを目当てにするヴァイキングにとって重要な戦利品でした。
「アングロ・サクソン時代最大の王」とも呼ばれるイングランドの七王国・ウェセックス王であるアルフレッド大王は871年に王位に即位してから長年にわたりヴァイキングと戦ってきましたが、ついにはイングランドのほぼ半分がヴァイキングの支配下となりました。
アルフレッド大王の娘であるエセルフリーダは修道女として修道院で暮らしていましたが、ヴァイキングの脅威から逃れることはできませんでした。エセルフリーダは隣国・マーシア王国の領主と結婚し、ヴァイキングとの戦いに加わっていくことになります。当初は領主が戦いを率いていましたが、902年に彼が病に倒れた後、マーシア王国はエセルフリーダが統治します。当時は女性が王国を率いることはなく、「アングロサクソンの歴史における王国の女性支配者の唯一の事例」とされています。
エセルフリーダは妹のいる修道院を含むマーシアの領土をヴァイキングから守るため、軍事力を積極的に行使して反撃することを選択しました。907年にヴァイキングがイングランド北西部の街・チェスターに終結した際、マーシア軍は彼らを迎え撃ちました。Nightshiftは「城壁から熱湯をかけて肉と骨を焼いた」「退散する相手に蜂の巣を投げつけた」という伝承を伝えています。
エセルフリーダが北方で戦う一方、南方では弟のエドワード長兄王が軍を率いてヴァイキングを追い詰めていきました。そして、妹の修道院がヴァイキングに襲撃される危険が高まると、エセルフリーダとエドワード長兄王は軍を派遣し、ヴァイキング軍をイングランド中部のテッテンホール付近で捕捉すると、逃げ道をふさいだ上で襲撃しました。この「テッテンホールの戦い」で敗れたヴァイキング勢力は大幅に弱体化したと言われています。
その後、エセルフリーダは戦略的な場所に城郭都市を建設し、ヴァイキングが突破できない防衛線を築きました。さらにアイルランドやウェールズの勢力とも同盟を結び、ヴァイキングに対抗する勢力を増やしていきました。こうした政策によってマーシア王国の勢力は拡大し、918年頃にはイングランド北部のヨークを長年占領していたヴァイキングの一部がエセルフリーダに忠誠を誓い、マーシア王国軍として戦ったとされています。
エセルフリーダは918年に亡くなり、マーシア王国における地位は娘のエルフウィンに引き継がれました。しかし、女性統治を良く思わなかったエドワード長兄王はエルフウィンを廃位し、マーシア王国を支配下に置きました。エルフウィンはその後、修道女として過ごしたという説もあります。エドワード長兄王はエセルフリーダの功績を消し去ろうとした可能性もありますが、修道院などでは生涯をかけてヴァイキングの襲撃から国民や礼拝堂を守り抜いた人物として、エセルフリーダの功績が記録されています。
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