「自分が設計したマンハッタンの超高層ビルが今年中にも嵐で倒壊するかもしれない」と気付いたエンジニアはどうしたのか? – GIGAZINE


動画


アメリカの構造エンジニアであるウィリアム・ルメジャーは、ボストン市庁舎やシンガポールのAXAタワーなど、さまざまな建築物の設計に携わった人物です。そんなルメジャーが、「自分が設計したニューヨーク市マンハッタンの超高層ビルが嵐で倒壊するかもしれない」と気付いた時、一体どうしたのかについてまとめた動画がYouTubeで公開されています。

The Most Dangerous Building in Manhattan – YouTube


1960年代、金融大手のシティコープ(現シティグループ)がマンハッタンに新しい本社を建設しようとしていました。


ちょうど付近の街区全体が売りに出されていましたが、その一角にはセント・ピーター福音ルーテル教会という古い教会がありました。シティコープが交渉したところ、教会は立ち退きを拒否。


その代わり教会側は、古い教会を新しいものに建て直し、シティコープのビルとは独立させれば問題ないという条件を出したのです。


そこで新しいビルの設計エンジニアとなったのがルメジャーでした。


新しいビルの床面積を最大化するには、教会のために一角を切り取らなくてはなりません。そこでルメジャーは、いっそのこと4つの角をすべて取り払った「高床式のビル」を建設することを思いつきました。


この構造では、中央の支柱がビル全体の荷重を支えると共に、強風による荷重にも耐える必要があります。当然ながら、4つの角に支柱がある建築物と比較して安定性に欠けます。


ルメジャーはこの問題を解決するため、「ビルを6層に分けてV字型に斜めの支柱を作る」という構造を提案しました。このV字構造により、荷重が中央の支柱に伝えられるという仕組みです。


ルメジャーはV字構造の上部と中央の列を取り除くことで、各層が個別のユニットとして機能するようにしました。


アメリカ・タフツ大学の構造エンジニア兼教授であるエリック・ハインズ氏は、この構造は非常にユニークなものだったと説明しています。


設計に当たっては、高層ビルに吹き付ける強い風も問題でした。この風による荷重も下の階に行くほど増加しますが、V字構造を採用することで解決できたとのこと。


V字構造に使われる支柱は1本40mもあるため、部品は現地で溶接されることになりました。


建築中のシティコープセンターはこんな感じ。V字構造のおかげでコストと重量を大幅に削減することができたとのこと。


真ん中の上部が斜めに切れたビルがシティコープセンターです。軽量なため風で揺れやすくはなったものの、それはせいぜい利用者が少し不快に感じる程度のものでした。


最終的に完成したビルを下から見上げるとこんな感じ。確かに4つの角に支柱はなく、中央付近の柱で全体を支える形になっているのがわかります。


さらにルメジャーは、シティコープセンターにおける風の影響を軽減するため、それまではビルのような建築物では一度も使われてこなかった「チューンドマスダンパー(同調質量ダンパー:TMD)」という技術を採用しました。


TMDは巨大な重りや振り子を質量体として、対象の振動を抑制する装置のことです。シティコープセンターの最上階には、重さ363トンの巨大なコンクリートの塊が質量体として設置されています。


シティコープセンターが揺れるとコンクリートの塊も同じ方向に動き始め、ビル全体の振動を減衰させます。ルメジャー氏はTMDを採用することで2800トンもの鋼材が不要となり、大幅にコストが削減できるとアピールしていました。


1977年の開業当時、高さ279mのシティコープセンターは世界で11番目に高い建物であり、技術的にもデザイン的にも高く評価されていました。


開業から間もない1978年5月、ルメジャーは別の顧客とV字構造の溶接について会話した流れで、ニューヨークのオフィスに電話をかけてシティコープセンターの溶接について尋ねました。すると、本来は溶接するはずだったV字構造の支柱を、請負業者がコスト削減のためにボルトで留めていたことが判明。ルメジャー本人は知らなかったようですが、ルメジャーの会社はこの変更に同意していたそうです。


一概にボルトが溶接より劣っているというわけではないものの、これによりV字構造にかかる力が変わってきます。それでもルメジャーは、建築チームが正しい計算を実行し、溶接をボルト留めにしても問題ないことを確認したのだと信じていました。


しかし、それから1カ月後に、ある学生からルメジャーに電話がかかってきました。この学生は、「教授がシティコープセンターの設計を懸念していた」とルメジャーに伝えたとのこと。


後にルメジャーは、「君の教授は大げさだよ。彼は私たちが解決しなくてはならなかった問題を理解していないのでしょう」と学生に語ったと振り返っています。その後、ルメジャーは学生と共に再計算を行って、設計の正しさを確認したそうです。


ところが、この頃になってルメジャーの中に、「風が建物の正面ではなく斜めから吹いたらどうなるのか?」という疑問が生じました。


そして再計算した結果、斜めから風が吹き付けると特定のはりにかかる応力が40%増えることが判明。V字構造の支柱が溶接ではなくボルト留めになっていたこともあり、ルメジャーは不安に駆られました。


ルメジャーはオフィスで建物の図面を徹底的に調査し、会社のチームがどのように風を計算したのかを調べました。その結果、チームは斜めの風を考慮していませんでした。


詳しく検討した結果、本来なら14本のボルトが必要な部分にたった4本のボルトしか使われていないことが判明。


ハインズ氏は、「ルメジャーがその瞬間に何を考えていたのか想像してみてください。数字を見て、『ああ、なんてことだ。本当にまずい』と思っていたでしょう」と語っています。


ルメジャーはパニックになりそうな心を抑えつけ、カナダの境界層風洞研究室の専門家であるアラン・ダヴェンポートの元に向かいました。ダヴェンポートの風洞研究室でさらに詳しく調べたところ、建物が動く動的条件での応力は40%どころではなく、60%も増加することがわかりました。


ルメジャーがこれらのデータを再検討した結果、最も弱い接合部は建物の30階にあることが確認されました。この接合部が壊れると、シティコープセンター全体が崩壊してしまいます。


また、過去の天気予報を徹底的に調べた結果、「シティコープセンターが崩壊するほどの風」は67年に1回の頻度で発生していました。また、嵐による停電などでTMDが機能しなくなった場合、時速110kmの風が5分間吹くだけでシティコープセンターが倒壊することも判明。1年間に同規模の嵐が発生する確率はなんと16分の1で、1976年にハリケーン・ベルが通過した際にも時速110kmの風が吹き荒れていました。


「ルメジャーがこの計算を実行した時の気分はどうだったと思いますか?」という問いに対し、ハインズ氏は「絶望的だったに違いありません。その恐怖や気持ちは想像もできません」と述べています。


ルメジャーは当時のことを振り返り、「そのような嵐は私が生きている間に発生したでしょう。これに気付いた時は7月で、その夏に発生する可能性すらあったのです」と語っています。


ルメジャーは決断を迫られていました。建築上の重大なミスを報告することは、多額の訴訟や破産、つまり自身の破滅をもたらす可能性がありました。ルメジャーは大きな嵐が起きない奇跡を祈って見て見ぬ振りをしたり、姿をくらますこともできました。


ルメジャーは後のインタビューで、車で橋脚に突っ込み自殺することすら考えたと語っています。


しかし、ルメジャーは膨大な人々の命を救うために、事実を打ち明けて対策に乗り出すことにしました。ルメジャーは弁護士や工学専門家と話し合い、建築家を通じてシティコープの会長であるウォルター・リストンに知らせました。


会議から数時間以内には、TMDを停電時でも動作させるための緊急発電機を調達。これにより、ひとまず停電による崩壊リスクの増加は避けられました。


ルメジャーらは「Special Engineering Review Events Nobody Envisioned(誰も想像しなかった出来事に関する特別エンジニアリングレビュー)」の頭文字を取った、「Project Serene(プロジェクト・セリーン)」を立ち上げました。


プロジェクト・セリーンでは、「毎晩シティコープセンターの従業員らが帰った後に溶接工が入り、V字構造周りの石膏ボードを剥がし、各接合部に厚さ5cm、長さ2mの鋼板2枚を溶接する」という補修作業が行われました。


その後、朝になって従業員が出社する前に壁を交換し、すべてを元通りにしたとのこと。


合計で200カ所以上の接合部に溶接の必要があり、ルメジャーは最も脆弱(ぜいじゃく)な30階から重要度順にランク付けを行いました。


しかし、すべての補修作業をハリケーンシーズン前に終わらせることは無理だったため、シティコープは赤十字と協力して周辺の避難計画も策定したとのこと。


最悪の場合、倒壊したシティコープセンターが別のビルにぶつかり、ドミノ倒しのようになる危険性もあったそうです。


大規模なパニックになることは望ましくなかったため、プロジェクト・セリーンは極秘で行われました。その代わりに重要な構造部品にひずみゲージが取り付けられ、問題があったら警告が送られる仕組みも導入されました。これには本来、数カ月かかる電話線工事が必要でしたが、リストンがAT&Tの社長に電話して一晩で完了させたとのこと。


極秘で進められていたプロジェクト・セリーンでしたが、さすがに周囲の人々が疑問を持ち始めたため、8月8日にシティコープは補修に関する声明を発表。この際は、「エンジニアは危険はないと保証した」とうそをつかざるを得ませんでした。


いくつかの新聞がこの件について報じ、ついには大手日刊紙のニューヨーク・タイムズからも連絡が入りました。この問い合わせに反応しなければニューヨーク・タイムズの手ですべてが明らかになるかもしれないと考え、ルメジャーは思い切って自分から電話をかけました。


ところが、ニューヨーク・タイムズはルメジャー氏の電話に出ることはなく、テープレコーダーで「ニューヨーク・タイムズがストライキに突入した」ことを報告する音声が流れました。それどころかニューヨーク中の新聞社が同時に10月までのストライキを開始し、プロジェクト・セリーンが明るみになる危機は回避されたとのこと。


ルメジャーは、「これまでで最も素晴らしい出来事でした」と語っています。


その後の作業は順調に進みましたが、8月下旬にはカリブ海でハリケーン・エラが発生。修理作業は半分が終わっていましたが、ハリケーン・エラは200年に一度という強力なハリケーンだったため、ルメジャーらには緊張が走りました。


ハリケーン・エラは時速200kmという強風を伴ってニューヨークへ進行。上陸が目前となった9月1日には、警察が周囲10ブロック圏内の住民を個別訪問して避難させる準備も整いました。


しかし、ノースカロライナ州沖で24時間ほど停滞した後、ハリケーン・エラは進路を変更。時速225kmという最大風速を伴ってカナダ方面に向かいました。


進路変更のおかげでシティコープセンターは危機を免れました。ルメジャーはハリケーン・エラが去った翌日の朝を、「世界で最も美しい1日」だったと形容しています。


そして、ルメジャーが危機に気付いてからわずか6週間後の10月には補修工事が完了しました。修繕には多額の費用がかかりましたが、シティコープはもともとの設計によるコスト削減の分もあったことから、気前よく支払ったとのこと。


約20年にわたりプロジェクト・セリーンは秘密のままでしたが、1995年には週刊誌のザ・ニューヨーカーが一連の事実を報道。ルメジャーは非難されるどころか、自らの過ちを認めて素早く問題を解決したとして称賛されました。


この記事の公開後、ニューヨーク市は建築基準法を改正し、設計時には正面だけでなく斜めの風についても計算することを義務づけました。


また、シティコープセンターに初めて導入されたTMDは世界中の高層ビルで採用されており、特に日本などで多くの採用例があるとのことです。


世界で最も高いビル20棟のうち6棟にTMDが導入されており、台湾の超高層ビルである台北101には大きな振り子型のTMDがあります。


なお、一連の事態の発端となった「ルメジャーに電話をかけてきた学生」が誰なのかについては諸説あります。プリンストン大学で構造工学を学んでいたダイアン・ハートリーという学生だったとも言われているほか、ニュージャージー工科大学で学んでいたリー・デカロリスという男性も自分がルメジャーと話したと名乗り出ています。


その後、シティコープセンターは2001年に売却され、「601レキシントンアベニュー」という名称で呼ばれています。


エンジニアリング業界では、シティコープセンターに関するルメジャーの行動は高潔で倫理的なものだったとされており、優れたエンジニアリング倫理の事例として大学の授業などでも教えられています。

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