アメリカでファミコンを「NES」として販売した理由とは? NES発売40周年で任天堂の元従業員が語る – GIGAZINE

by Martin Bergesen

任天堂のファミリーコンピュータ(ファミコン)は、アメリカでは「Nintendo Entertainment System(NES)」という名前で売り出されており、本体やコントローラー、カセットに至るまで形状が全く異なります。なぜ日本のファミコンのままではなくNESとして新たなデザインとともに売り出したのかについて、任天堂のアメリカ法人「Nintendo of America(NoA)」の元従業員がNES発売40周年を記念するパネルディスカッションで語りました。

Former Nintendo employees reveal what it took to launch the NES in America – Hanafuda Report
https://hanafuda.report/articles/former-nintendo-employees-reveal-what-it-took-to-launch-the-nes-in-america/

We Launched the NES 40 Years Ago Today – Gail Tilden, Lance Barr, Bruce Lowry – PRGE 2025 Portland – YouTube


パネルディスカッションに登壇したのは、当時のNintendo of America(NoA)の主要メンバーで営業担当バイスプレジデントだったブルース・ロウリー氏、マーケティング・コミュニケーションズ・マネージャーとしてパッケージや広告を担当したゲイル・ティルデン氏、そしてNES本体のデザインを担当したデザイナーのランス・バー氏です。


1980年代にNoAが直面した最大の問題は、「ATARIショック」と呼ばれるアメリカのビデオゲーム市場の完全な崩壊でした。ロウリー氏によれば、小売業者はビデオゲームにうんざりしており、ATARIは売れ残ったカートリッジをアリゾナの砂漠に埋めている有様でした。このため、新しいビデオゲーム機を市場に投入することはほぼ不可能と見なされていました。


さらに、日本で成功していたファミコンは、アメリカのチームにとって受け入れがたいデザインだったとのこと。バー氏は、クリーム色の本体やコントローラーのデザインを「安っぽいおもちゃ」のようだと感じ、ロウリー氏も「非常に安っぽく見えた」と同意しています。このままでは「ビデオゲーム」というだけで小売業者から拒否されるため、NoAは製品を「エンターテイメントシステム」として再定義する必要がありました。


バー氏はファミコンを安っぽいおもちゃではなく、オーディオ機器のような洗練された「電子機器」としてデザインするよう指示されました。バー氏が最初にデザインしたのはアドバンスド・ビデオ・システム(AVS)と呼ばれるモジュラーシステムで、ワイヤレスコントローラーやキーボード、データカセットデッキなどを備えた先進的なものでした。しかし、このAVSは1985年1月のCESで披露されたものの、実際には動作する実機ではなく、中身はファミコンカートリッジが挿入されたシャープ製のテレビだったそうです。


最終的に、AVSのコンセプトはコストや技術的な問題から変更され、後のNESのデザインが短期間で生み出されました。日本側エンジニアの要望で、ホコリの侵入を防ぐためにカートリッジをフロントローディングで挿入し、押し下げる「ゼロフォースコネクタ」が採用された結果、ビデオデッキのような外観になったとのこと。

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市場が「ビデオゲーム」を拒絶する中、チームは製品がそれ以上の何かであることを示す必要がありました。そこで戦略的に投入されたのがロボットです。ロウリー氏は最初「今まで見た中で最も馬鹿げたもの」と思ったそうですが、結果的にロボットは小売業者や消費者の目を引くための完璧な「釣り用のルアー」または「トロイの木馬」となったと語っています。ロボットは、ATARIとは違う新しい「エンターテイメントシステム」であることを象徴する存在となったというわけです。

ロボット自体は従業員の子供たちから「動きが遅すぎる」と酷評されたものの、経営陣はその反応を見ても「挑戦を受け入れよう」と述べ、あえてロボットを前面に押し出す戦略を決定しました。また、ニュージャージー州での調査で、母親たちが「銃(ガン)」という言葉に強い抵抗感を示したため、「ライトガン(光線銃)」は急遽「ザッパー」という未来的な名称に変更されたというエピソードも紹介されています。


ATARIの失敗の一つは、パッケージのイラストと実際のゲーム画面がかけ離れていたことでした。ティルデン氏率いるマーケティングチームは、この過ちを繰り返さないよう、あえてゲーム内のピクセルアートに近いグラフィックをパッケージに使用し、消費者を裏切らないデザインを採用しました。さらに、消費者の信頼を勝ち取るため、ゲイルは「任天堂品質保証シール」(Nintendo Seal of Quality)を作成しました。


さらに、低品質なサードパーティ製ゲームが市場に溢れることを防ぐため、NES本体とカートリッジには「10NES」と呼ばれるCICチップが搭載されました。


1985年10月、NoAはまずニューヨーク周辺の限定された市場でNESのテスト販売を開始しました。チームはニュージャージー州の劣悪な倉庫で、ヘビやネズミ、ハリケーンに悩まされながら作業にあたりました。小売業者の抵抗は根強く、当時のマネージャーであるドン・ジェームス氏の証言によれば、店舗にディスプレイを設置しに行くと「こんなガラクタを店に置くものか」と追い返されることも日常茶飯事だったそうです。


最終的な成功の鍵は、製品の圧倒的な品質、特に「アーケードゲームと全く同じ体験が家庭でできる」ことでした。懐疑的な小売業者や消費者にそれを理解させるため、ティルデン氏はニューヨーク・メッツの野球選手ムーキー・ウィルソンを起用したモールツアーを企画し、子供たちに実際にゲームを体験させるイベントを開催しました。これが決定打となり、NESは市場の崩壊から奇跡的な復活を遂げることになります。

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